グローバルのヒント
グローバル・コネクター
第32回「技術を尖(とが)らせる」稲垣裕行さん
今回のゲストは、外国企業の日本拠点設立や在留資格・査証(ビザ)の取得などインバウンド関連の法務サービスを手掛ける「なのはな法務事務所」の司法書士・行政書士、稲垣裕行さんです。
木暮 早くから独立されたそうですね。
稲垣 新卒で入った金融機関と士業の事務所を含めて勤務経験約9年の後に独立しました。タイミングとしてはフライング気味だったかもしれません。売りとなるような「支え」が全くない状態で「なんでもやります」の気概だけでした。独立した頃の司法書士業界は「過払い金の返還請求」が盛んになり始める時代でした。過払い金は稼げる業務ではあるのですが、積み重ねても専門的な経験値が身に付かないと思い、1年くらいでこの分野から撤退しました。当時のスタッフからは猛反対されましたが「同業の行列の後ろに並んではいけない」と押し通しました。士業の世界は典型的な仕事ほど供給者が多い市場。司法書士の場合は不動産取引に関する登記業務がそれに当てはまるのですが、不動産の売買や担保設定などに関わる銀行や不動産業者にはすでに決まった司法書士が付いています。とはいえ、あるのはエネルギーだけ。気力を売って経験値を稼ごうという感じでした。あれこれ考えるも、顧客の「分母」が日本の人口1億2千万だと何を始めても変わらない。「世界の人口である72億人を分母にできないか」と思うようになり、今の業務に切り替えました。
木暮 分母72億人計画のためにどうされたのですか?
稲垣 日本法人の設立を目指す外国企業からの相談や依頼がまずどこに来ているのかを探しました。依頼のフロー(流れ)を理解しようと自治体や商工会議所を回るうちに日本貿易振興機構(ジェトロ)にたどりつきました。当時は出入りする司法書士が珍しかったのか、仕事を紹介してもらえるようになりました。
木暮 英語でのやり取りも必要になる。
稲垣 試行錯誤の日々でした。留学どころか、英会話学校にすら行ったことがなかったので本当に苦労しました。会社設立を英語で説明するために、まず日本語で作成した説明文を英語のできる知人に訳してもらい、それを自分で説明できる表現に直し、何十回も朗読して練習しました。通常、会議は対面形式です。最初の頃は自分でうまく説明できず外国人スタッフに補佐してもらっていましたが、顧客にとって大切なのは流暢な英語で説明を受けるかより、本職(資格者自身)の口から直接説明を受けられたかです。英語力が原因で会議での失敗も多かったですが、自分だけで十分な説明ができるように何度も練習を重ねました。
木暮 たどたどしく説明できても、質問が待ち構えます。
稲垣 もう「地獄絵図」でした。北米などでは文化なのかもしれませんが、「真剣な参加の証し」という感覚で質問がたくさん来ます。「ディスカッション」といいながら実はなじられているのではないかと思うこともしばしばで、くじけそうになりました。「誠実さ=質問」というのは今なら理解できますが、渦中にいる時はつらい。現地との時差を踏まえて設定した時刻で会議が始まる上、こちらの事情はお構いなしで「アメリカンスタイル」でガンガン来る。ただ、交渉の初めの段階では「押したり引いたり」の駆け引きがありますが、そこを越えたら信頼度が各段に上がります。それが米国企業の面白いところ。それを「くぐる」と質問が少なくなり、「いつもの通りで」というやり取りで済むようになります。定着率も高くなります。
木暮 「くぐった」という感覚とはどんな時ですか。
稲垣 晴れて進出が決まった会社の設立記念パーティーを日本で開催しました。担当者の感激もひとしおで、帰国する際には泣きながら手を振ってくれました。こうした経験は、この仕事でしか味わえません。
木暮 それだけ日本進出は難しい?
稲垣 そうかもしれません。今でも英語のスキルは十分とは思いませんが、彼らが求めているのは、私の英語が流暢になることより、望んでいるところに「船頭」として連れていってくれること、望んでいるゴールまで不安なく届けてもらえることです。依頼人が通訳者の説明でも十分だと思っていれば、私以上にパフォーマンスを出せる同業の司法書士はたくさんいるはずですが、実際はそうなっていません。
木暮 失敗も。
稲垣 説明が足りず相手を戸惑わせたことがあります。英語でメールを書くと日本語の時ほど深く思考できず説明が「浅く」なってしまいます。日本語なら絶対に加えているはずの説明も抜け落ちたりすることもあります。お客さんに「君のメールで混乱した」と叱られたこともあります。説明不足での混乱を一度でも起こすとリカバリーは難しい。それ以降、相手に「彼の説明はそのまま受けとめていいのだろうか」と不信感を与えてしまうからです。解決法のひとつとして、翻訳ソフトをつかうこともあります。作成した英語の原稿を翻訳ソフトでいったん和訳すると不足している表現が見えてきます。
木暮 説明が論理的で網羅的かを確認するのですか。
稲垣 そうです。英語だけで考えた文章は説明が不足していることが多く「もう一文あれば通じる」という問題も日本語で読むことで解決できることがあります。他にも日本特有の事象を説明できていないことによる失敗もありました。クライアントに「印鑑証明」を依頼した時が印象的です。依頼してその後音沙汰がないので事情を聞くと「何のことか分からなかった」というのです。役所で印鑑登録の場面に立ち会い、出てきた印鑑証明書を見てようやく納得していましたが、印鑑の証明書という記述から「円柱の印鑑に何か証明を付けると思っていた」と言われました。直訳で印鑑証明書とだけ伝えず、「印影」の証明書だと説明しておけば良かったわけです。
木暮 地域によって仕事の進め方に特徴はありますか。
稲垣 傾向として、北米は西に行くほどおおらかで、地理的近さからもアジアを理解してもらいやすいです。アジアの人は納期と金額を重要視するところがあるのは事実ですが、それは最初だけだと思います。2回目以降は金額よりも信頼感、数行のメールでも話が通じることに重きを置いているようです。初交渉から遠慮なく値切るのが中国スタイルですが、2回目以降の案件での交渉ではこちらの見積もりに「それでOK」と返ってくることも多いです。次も依頼するかどうかを初回で決めているような気がします。相手のことが分かれば、大事なのは値段じゃない。依頼したことを確実にやってくれるか、心地よく物事が進んだかを見ている感じです。中国人は金額だけで決めると結論付けてしまうのは違う気がします。
木暮 不安を感じさせないのが大事?
稲垣 「理解してもらう」ことに対しては、すごく意識しています。お客さんにとって理解しづらい部分を認識した上で説明することを心掛け、とことん理解してもらう。最初にプロセスと着地点を示し、途中の段階でもどこまで進んだのか分かるようにしています。
木暮 疑問に付き合って、解きほぐしてくれる。
稲垣 海外進出は不安がつきものです。全てに納得できるまで付き合ってもらえる専門家がいたら、私なら少しぐらい依頼料が高くてもお願いしたい。そこに尽きるのかなと思います。これは技術を「尖らせる」職人の仕事なのかもしれません。数多くの同業者の列の後ろに並ぶのではなく、自分たちにしかできないことに、こだわりを持ちたいですね。(おわり)
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